ハーレムに存在するロイヤルカジノの周辺には小汚く雑多な街があり、そこにはカシュパの下級戦闘員やその縁者が住んでいるという。
そして、カシュパに絶対服従すると誓うことでなんとか奴隷になることを免れた、搾取されるだけの哀れな住民たちも。
セルゲイは仕事などでロイヤルカジノに用事があった際には、ついでにそのスラムを散歩するようにしていた。
このようなスラムはトータルエクリプスやボーダータウンの側にも散見されるが、あちらはカシュパ戦闘員が多く住みあとは奴隷ばかりだ。
カシュパの支配が進んだ今、ハーレムでただの住人が見られるのはこのロイヤルカジノのお膝元くらいだろう。
餓えに苦しむ哀れな住人たちを見ると、セルゲイは師匠たるワークマンに拾われる前の暮らしを思い出す。
そして、救われた時をも思い出す。
人は皆救われるべきだ。
セルゲイはワークマンに、カシュパに救われた。ならば、次はセルゲイが救ってやるべきなのではないだろうか、と少々傲慢な思いがある。
その一貫として、幾度となく定期的に行われる食料の略奪のあと、手に入れた豊富な食料をほんの一塊ほど横領し、この住人たちに横流しを行っているのだ。
流石にワークマンにはすぐ気付かれてしまったが、今のところおとがめもなくお目こぼしを頂いている。
しかし、誰かが独占しているのかなんなのかは知らないが、それすらも回らぬ住民が居るらしい。
そのため今日のように散歩をして、いかにも餓えて気の毒な住人に食料を投げ渡して少しばかりの交流をする。
そうしていれば少しでも命を繋ぎ、いずれ訪れるサルポザ様が支配した世界を――救いある未来を、生きて待つことが出来るだろう。
しかし、住人たちは大概はセルゲイがカシュパだと、しかもそこそこの地位にいるものだとすぐに気付いて畏縮したり逃げたりしてしまう。別に危害を加える気はないのだが……。
だが中には素直に感謝してくるものもいる。特に若く小さい子供にその傾向が見られた。
感謝されたくてやっているわけではないが、ストレートな感謝はつい嬉しくなってしまうものだ。
その日、たまたま目に留まった少年も素直に感謝してくるタイプだった。
少年は魔界人には珍しくない赤毛を、男にしては珍しく長く伸ばしていて、セルゲイは自身も髪を伸ばしているために勝手な親近感を覚えた。
ぽんと食料袋を俯いている少年の足元に放ると、大袈裟とも言えるほど驚きに跳ねて、慌てたようにセルゲイを見上げる。
「も……もらってもいいのか?」
セルゲイは少年を見下ろしてゆるりと頷く。少年はひゅうっと息を吸うと、汚れた顔にぎこちない笑みを浮かべた。
よほど餓えていたのか嬉しそうに食料を拾い上げがつがつと食らいつき、見ているこちらが喉に詰めないものかとはらはらしてしまうほど。
魔界は物資が乏しいが、カシュパはそれほど困窮していない。
トラウマヨムが管理する、魔界で一番金が動いているというロイヤルカジノの収益は何割かカシュパにおさめられているし、ディウェルベの管轄内であるトータルエクリプスもそうだ。その他にだってたくさんある。
金はいくらでもあるし、度重なる略奪により物資そのものを手に入れていることもある。
そのため、カシュパの幹部はそこそこ物資が回ってくるし、食べ物だってそこそこいいものを食べている。
セルゲイも例に漏れずそこそこの食べ物を食べているし、首脳部の一員である師匠、ワークマンにごちそうしてもらうこともある。
それに比べてしまうと少年に投げ渡した食料はつまらないものだったが、餓えた人々はそれでもこんなに喜べるくらいに餓えているのだな、と思う。
セルゲイが餓えていた頃から随分と経ってしまって、その時の感性からはだいぶ変わってしまった。昔の自分はこんなものにも喜んでいたっけ。
「ありがとう。あんたは、……カシュパ、だよな?」
少年はあっという間に食べきってしまうと、セルゲイの右腕にあるカシュパの腕章を見てそう言い、今更ながら少し遠慮したような素振り。
別に身分を隠す必要もないし、セルゲイがいつも通り沈黙したまま頷くと、少年はまたぎこちない笑みを浮かべる。
「何度でも言うけど、ありがとう。凄く助かった。お腹がすいて……死にそうだったんだ」
ぱちくりと瞬きをして、もう一度頷く。彼も食料が回ってこないタイプの住人だったようだ。
ついついワークマンと話すときのように魔力で「気にするな」と文字を書いたが、彼が文字を読めるとは限らないのだとふと気づいた。
しかし意外にも少年はぼんやりと光る文字列を目で追って理解したように頷く。
「(文字が読めるのか?)」
「う……うん。兄さんに教えてもらったんだ。あんた……喋れないのか?」
「(喋れない。文字が読めるなら問題はない)」
おそらく彼はカシュパの戦闘員の縁者なのだろうな、と予想した。
それならば交流もしやすい。セルゲイは少し気が乗って、少年の傍に腰掛ける。
少年は汚れてしまうと慌てていたが、別に汚れたところで気にはしない。まぁ……ワークマンは怒るだろうが。
そうして少年と少し話したところ、カシュパ戦闘員の縁者だという予想はあっていたようで、彼の兄は戦闘組のどこかに所属しているらしいと分かった。
アビス移植はしていないものの多量の魔力があるらしく、幹部の覚えもいいのだと豪語しているらしいが……本当なのかは定かではない。
セルゲイは略奪組なため戦闘組には詳しくないというと、少年は少しだけ残念そうだった。いまは離れている兄の話を聞きたかったのかもしれない。
兄に魔力があるなら少年にも魔力があるのでは?とセルゲイは考え、少しだけ探ってみたりもした。
それも予想は的中して、少年にはそこそこの魔力が眠っていることが分かった。
この魔力量なら鍛えさえすれば戦闘組にも入れるのではないだろうかと思ったが、どうも魔力の扱い方を教わっていないらしく魔法を使えないようだった。
セルゲイは魔力があったのをワークマンに見出され、カシュパに入れてもらえたクチだ。この少年も同じような道があるかもしれない。
まだセルゲイの一存では不可能だが、いずれワークマンに紹介して承認されることが出来れば可能だろう。
「(魔法を教えてやろうか)」
「えっ……いいのか!?」
少年は嬉しそうに薄汚れた顔を綻ばせ、今までで一番の明るい笑顔を見せた。
兄の力になりたい、つまりは自らもカシュパに所属して、兄と共に戦いたいのだという。そうするには魔法を使えるようになるのが一番だと。
セルゲイは少し唸ってしまった。今すぐ戦闘組に入るには少し……少年は貧相すぎる。
しかし、魔法が学べるとわくわくしている少年にその現実を突きつけるのは憚られたため、まずは簡単なものから教えてみてそれから考えよう、と思った。
――少年はとても勤勉だった。
セルゲイが教えたことを吸収して、なにも分からない状態からすぐに簡単な魔法が使える状態へと育った。随分と早い成長だ。
セルゲイ自身も勤勉な方であるため、少年とはずいぶんと気が合うというか、波長が合っているような気がする。
そのため教えやすかったのもあるが、やはり彼自身の才能が思った以上だったのもあるだろう。
早々のうちに魔法球を作り出せるようになり、射出も可能になった。
身体強化やその他の属性魔法は応用になってくるため少しずつ、彼に合ったものから教えるようにしようと考えていたのだが、自分で水属性を扱えるようになっていた。
身体も作らなければならない。貧相なままでは強い魔法を扱うと潰れてしまう可能性もあるし、運動がままならなければ戦闘も出来ない。
それから、それから……。
ずっと弟子という立場にいるため、誰かになにかを教えるのは初めてだ。だからこんなにも楽しいのだろうか。
セルゲイはこの拙い魔法教室を楽しんでいた。
教師は人にものを教えるのがはじめてのセルゲイで、生徒は名前も知らぬかわいそうな住民の少年だ。
気の毒な者を一人でも救うことが出来れば、などと考えて初めてみたことだったのだが、存外楽しい出来事になった。
そうしてすっかり習慣付いてしまった少年への訪問。ロイヤルカジノのオーナーであるヨムへの書類を届けるついでにスラムへと訪れた。
少年の住むあばら家への道はとっくに覚えてしまって、何度も訪問しているのだなと嫌でも実感できてしまう。
しかし、その日は様子が違った。なにやら争うような声が聞こえたのだ。
少しだけ足を早めて少年のあばら家に向かうと、見えてきたのは妙な男たち数人に襲われている少年だった。
「お前!カシュパから施しを受けているな!どうやった!!」
「知るかっ……離せよ!」
少年はセルゲイが教えた魔法を拙いながらも実践したようで、周辺は荒れ魔力の残渣があちこちに散らばっていた。
しかし、大人の男の体格には勝てず、人数差もあって物理的に押さえつけられてしまったようだ。殴られたのか、頬は腫れ唇も切れている。
ワークマンの教え。衝動的に突入せず、まずは敵を観察すべし。
いち、にい、さん……5人。少年を押さえつけている男以外は全員抜き身の武器を持っているが、あまり使えるような腕はないように見える。
彼らの暴力的な尋問は一息ついて怒鳴り声をぶつける段階にあるようだ。
カシュパ――ではない。身なりからして、この辺りの住民でもない。
魔力は感じられない。カシュパの目を掻い潜って過ごしているつまらぬ野盗どもだろうか。
しかし、口振りからしてカシュパの恩恵を受けようとしているようだが……。
恩恵は受けたいがカシュパには所属しない、という彼らの考えはセルゲイにはわからない。
サルポザ様に従うことの何が嫌だというのか。所属すればもしかしたら重用されるかもしれないのに。
いつ止めに出る?殺してしまうよりは奴隷に回した方がいいだろうし、次元門で隔離して一人ずつ意識を落としていくのが無難か?
様子を見ながら考えを巡らせていたのだが、タイミングをうかがっているうちに様子が変わった。
望む答えをなにも答えない少年に焦れたらしい男が、少年の長い髪をざくりと切り落としたのだ。
瞬間、セルゲイは次元門に飛び込んだ。教えに反して、衝動的だった。
少年を押さえつける男の傍へ一瞬のうちに近寄ると、腕を振りかぶり鋸のような魔力の刃で男を切りつける。そこには明確な殺意があった。
がりがりと不快な音を立て、やがて血飛沫と共にぽんと頭が飛んでいく。
ぼとり、ごろん、ごろ。
びゅくびゅくと汚い血を吹き出す頭を失った身体を蹴り退かし、途端にぎゃあぎゃあとうるさく騒ぎ出した男たちをぐるりと見まわす。
思った通り強くはなさそうなので、このまま制圧してしまうことにした。
次元門を潜り、あるいは敵を次元門へと飲み込み、魔力の刃で切り裂き、次元光で焼き穿ち、地面に何度も叩きつけた。
スラムの薄汚れた地面があっという間に赤く染まり、制圧が完了するのはあっという間だった。
汚してしまったな、と少しだけ反省する。普段なら部下に掃除を頼んだりするのだが、こんな場所を掃除はしてくれないだろう。
カシュパの領地ではあるものの、管理外だ。
マスクにはねた返り血をグイと拭って、倒れたまま呆然としている少年のほうへ向かった。
怪我の様子としては、頬は腫れ唇の端が切れており、腕に軽い打撲と手で握られた跡が残っている。
少年は何が起こったのかまるでわからない、といった様子でぼうとセルゲイを見上げている。
「(怪我はそれほど酷くないようだ)」
文字を綴るとその文字列をちゃんと目で追ったため、目を開けたまま意識を失っているわけではないらしい。
じっと待っているうちにやがて落ち着いてきたのか、少年は少し身じろいで身体を起こすとあたりの惨状を見回して体を強張らせる。
立ち上がろうとしているのかと手を差し伸べたのだが、ぱしんと払われてしまった。
思わず目を見開いて、瞬きをひとつ。少年の反抗的な態度は初めてだった。
「こんなに……人を……簡単に殺すなんて……」
声は震えていた。切れた唇は戦慄いて、おびえながらも非難するような瞳がセルゲイを貫いた。
「あんたおかしいよ」
――――。
セルゲイはまた瞬きをして、少年を見つめた。
何かが終わった気がした。それはきっと、気のせいではない。
目を細めて、長く息を吐く。
ごそりと懐を探って食料袋を取り出し、少年の足元にぽんと放る。そのままコートを翻して踵を返した。
「……もう、来ないで」
背中に少年の声が掛かって、セルゲイは唸り声をひとつだけ漏らす。
早々に次元門を潜り、次元の亀裂の先へと進んだ。
足元の安定しない宇宙のような空間に一人になると、セルゲイは足を止めて手のひらを見た。
青と黒のグローブが血で汚れている。
「……」
ワークマンに怒られてしまう前に、綺麗にしておかないと。
その日は個人での仕事がなかったため、セルゲイはワークマンの補佐をしていた。
補佐と言ってもワークマンは自分の仕事はなんでも一人でこなしてしまうため、結局はついていくだけだったが。
セルゲイの次元門を活用してやってきたのは、カシュパ傘下の闇市場のひとつだ。
なにやら報告書との差異があるとのことで直接報告を聞きに行くらしい。
何度か来たことのある場所だが、いつ来ても相変わらず乱雑としている。売り物の食料や薬、その他物資から人間獣人問わずの奴隷の檻。
報告書を捲りながら歩みを止めないワークマンについていく最中、ざんばらの長い赤毛がちらと見えた気がして、セルゲイはふと振り返った。
ロープに繋がれた奴隷が奴隷商に連れられ、ぞろぞろと陰鬱に歩いていく。長い赤毛はその中にあった。あの少年だった。
……何をしたかは知らないが、捕まってしまったのか。
カシュパの縁者が奴隷にされるのはよっぽどのことがないとあり得なかった筈だが……カシュパに牙を剥いたか、あるいはカジノで金を失ったか。
妙に怪我をしている様子なので、もしかしたら牙を剥いたのかもしれない。兄のようにカシュパの戦闘員になりたいと言っていたあの少年が?……考えたところで分からないけれど。
「どうした?気になるものでもあったか」
セルゲイが足を止めていることに気付いたワークマンが振り返り問うてきた。
ゆるりと首を降って、すこし先にいるワークマンを追う。
そうやって何でもないと伝えたものの、ワークマンは興味深いとばかりに奴隷商と奴隷たちの方を眺め始めた。
「奴隷か。近頃はトータルエクリプスでの消費が増えているからな……」
ワークマンが持っていた書類をぱらぱらと捲り、目的のページを見つけたのかトントンと指で叩く。
覗き込むと、セルゲイも一度目を通したことがある書類だった。捕まえた奴隷の数のデータなのだが、一度トータルエクリプスを通過したあたりで数字がごっそりと減っている。
「ディウェルベが消費していると聞く。まあ、あの奴隷たちもいくらかはそうなるだろうな」
中級略奪班のディウェルベにはセルゲイも勿論会ったことがある。
なんというか……簡単に言ってしまえば"イカれている"。
魔法も特殊な呪いも扱えるため強いのは確かなのだが、性格はイカれているとしか言い様のないほど狂信的で破綻していた。
彼女の崇める"神"が血を求めているらしく、日頃奴隷の血を、あるいは気の毒な戦闘員を殺して捧げているのだという。あの奴隷たちも、幾人かはそこで消費されていくということだろう。
哀れな。奴隷にまで落ちてしまえば、もうセルゲイにはどうしてやることも出来ない。首長のサルポザ様は奴隷からも人材を拾い上げたりしているらしいが、ただの幹部であるセルゲイには到底出来ないことだ。
住人からですらセルゲイは拾うことが出来なかった。
そも、あの少年はセルゲイの手を拒んだ。拒まれてしまった。それでもなおついてこいと強制することは、セルゲイには出来なかった。
やはり、まだまだ人を救うには力が足りない。もっともっと精進しなければならない。
ふと、赤毛の少年が顔をあげて、こちらの方を見た。ワークマンと二人で眺めていたから視線に気付いたのか、あるいは我々は二人とも目立つからか。
ぱち、と目が合うと少年は驚いたように目を見開いて、悲しそうに顔を歪めた。セルゲイのことを忘れていなかったようだ。
こちらに手を伸ばそうとしたようだが鎖が邪魔をして、引きずられるように奴隷商人に連れていかれてしまった。
「知り合いか?」
頭を横に振ったが、ワークマンは少し考えたあと、なるほどなと小さく呟いた。
「俺がお前を救えたのはお前の運が良かったからだ。アレの運は悪かった、それだけだろう」
師匠は察しがいい。それとも自分が分かりやすいだけか。
「(そうなのでしょうか)」
「そういうことにしておけ。救うことなど出来ない、もう止めろ、などとは言わんが……気に病むくらいなら程々にしておくんだな」
ワークマンは呆れたようにそう言ってフンと鼻で笑い、くしゃくしゃとセルゲイの頭を撫でた。
乱れてしまった髪の分け目を手櫛で軽く撫でつけて、ワークマンを見上げる。
「いくぞ、セルゲイ。忘れてしまえ」
「……」
首長と師匠の言葉は絶対だ。従っていれば問題がない。
セルゲイは返事に唸りながらこくりと頷いて、また歩き始めたワークマンを追う。
もう振り返らなかった。
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